まだ身体を休めておけばいいものの、思いがけず目が覚めてから、夢現つなままにしばらく時間が経っていた。時間の経過とはほとんど一方通行で、過去から未来に淡々と流れているのだが、うつらうつらとしていると、時間的なものが行ったり来たりしているように思えるのだ。今朝の僕はというと、その間、4年前の渋谷の光景を想起し、先週のいくつかのショーが瞼の裏に現れ、今晩のディナーの約束について考えを巡らせていた。しかし、「ああ、あと30分で家を出ないといけない」と自覚すると、とたんに僕の身体は現実に帰ってくるのだった。 現実というよりは、リアリティと言った方がしっくりくるのだが、社会や街、もっと大袈裟にいえば世界のようなものは、事細かに因数分解をしたら、構造物や物質で整理ができてしまうのだろうと思うことがある。道、建物、空、人、植木、ゴミ……それらの特性があって、それぞれに歴史がある……という具合に。そうやって現実を捉えていくと正確なのかもしれないが、これまた正確になればなるほど僕たちは慣れて、飽きて、いつのまにか忘れていく。ちょっと前まではあったはずなのに、看板を下ろした空き家が、蕎麦屋だったことが思い出せなくなる現象にちかい。ああ、でも、僕がその蕎麦屋のことを人一倍愛していたとしたら、思い出せないどころか、悲しいこととして記憶しているのか。となると、まったくもって、現実とは曖昧で、万人との完全な共有というのは困難で、決定的に、リアリティというのは人それぞれ異なるはずなのだ。 ゆえに、リアリティとは、個がそれをどのように見ているのかの途方のない蓄積なのだと思う。「自分ごと(である)」ということは、個が抱くリアリティ(それらは、ことに生の状態である)において強烈な意味を持つ。そして、大抵の場合、「自分ごと」しか、あなたの夢には登場しない。無論、これらは、一方向に流れる時間に、逆らってもいる。だから、リアリティには、無数の地層がある。それぞれの地層に根を張った花が、地表に顔を出している。そんなことを度々感じているのだ。 (……)たとえばそれは、ほとんど同じように歩く人々を観たときのことだ。朝方の渋谷、人々がそれぞれの目的地に向かって足早に移動する姿は、単に無個性に感じられるのに、その一呼吸の先で群像から個にフォーカスを合わせると、それぞれが何者で、どんな心でいるのかが分かった気になることがある。遠近法のようなものだ。きっとあの人は、心を痛めている、疲労困憊なのだろう、嬉しいことでもあったのだろう、時間に追われて急いでいるのか、だったり。それは、僕が「最も親しい他人」とたびたび呼称している、嘘をつくことのできない、個人に内在するごく個人的な眼(「そいつ」は常に成長している)が、知覚し、感受し、直観することにある。「そいつ」は、僕によく話しかけてくる。「そいつ」は、わかりやすいほどに自分の経験と呼応するあれこれに繊細なリアクションを起こし、嗜好とそぐわないものに無関心を徹し、まだ知らないものには反応することができない。言わんば、心を痛め、疲れ、歓喜した、過去のそれぞれの地点での僕と「そいつ」の体験と体感があるから、その人々を見たその時に、「(きっとこうだろうという)憶測」や「(こうなんじゃないかという)想像」を顕現させることができる。建前をもった僕たちだが、本音の代弁者は目に見えないところで息をしているのだ。